番狂わせが面白い☆

予想外の事が起こる日々を楽しんでおります。ゆとり世代共働き1児(0歳)の母です。主に育児の記録、たまに趣味の宝塚感想など。

もののけ姫が氷河期世代の若者の自分探しの旅、もしくは就活の物語に見えてきた

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普段と随分かけ離れた話題ですみません。
先日の金曜ロードショーで放送されたもののけ姫について、ツイッターから面白い記事が流れてきました。

これを読んだ後だとヒイ様役の森光子さんの穏やかで優しい声が怖いし、アシタカとカヤの別れのシーンで今までしっくり来てなかった「きっと、きっと」の台詞回しがやっとしっくり来ました。
許嫁っていうのは知ってたけど、まだ親がそう決めただけの子供同士の関係というか、たけくらべみたいな中学生同士くらいの淡い初恋レベルで考えてたのよね。。。

あとモロの「黙れ小僧!」ももう今までと違って聞こえる...。アシタカへの怒りだけじゃなくて母としてのサンへの愛情を感じる...。何故だ...不思議。

その辺りも踏まえて改めてもののけ姫を見返してみると、タイトルのような感想に行き着きました。
勿論、神と人との戦いという大テーマがあるのは前提として。

まぁ底の浅い感想なので鼻ホジで読み流してください。

アシタカの置かれた絶望的に孤独な状況

映画を観ていると、タタリ神を倒し、侍を倒し、最後はシシ神の首を取り返すという大活躍をしていて、タタラ場やサンの信頼を勝ち取っているスーパーヒーローに見えます。

でもアシタカの立場でストーリーを辿ると、どこにも彼の居場所がありません。

タタリ神からムラを守り、乙女を守ったのに許嫁とも別れ行く当てもなく故郷を追い出された。
その元凶となったエボシに復讐しようにも、エボシはタタラ場の女達や病人にとって必要不可欠な存在だったため、殺すことはできなかった。
それにナゴの守の話を笑ってするタタラ場の人々も受け入れられなかった。
ならば(?)エボシと敵対するサンを救い、共に生きようとしたがモロに「お前にできることは何もない。」と言われ(実質サンに)拒否される。

自分にできる事を精一杯頑張り、何人もの命を救ってきたのに、何も報われない。
どこにも居場所がない。

山犬の兄弟と別れトボトボ歩くアシタカの背景(アシタカの心情)は土砂降りの雨です。
ポーカーフェイスだけどもアシタカの心はズタボロに傷ついています。


お前は必要じゃない。と言われ続けることは精神的にとても傷つきます。

でもそんな経験がある人は多い。
就職活動で。

もののけ姫が制作された1994年〜1997年頃は正に就職氷河期
受験戦争を乗り越え、就職活動に挑んだものの企業から「お前は必要ない」と言われ続けた若者が大勢いたわけです。

そうした社会情勢をアシタカに投影したのかは分かりませんが、重なる部分はあるように感じます。
宮崎監督のご次男が94年に大学を卒業しているので、宮崎監督にとっても就職氷河期というのは身近な出来事だったのかもしれません。

クライマックスで自分のやることを見つけ、ラストで居場所を作ったアシタカ

土砂降りのアシタカの心情は急に晴れます。
侍に襲われるタタラ場を見たからです。
おトキ達から事情を聞き、新たに「エボシを呼び戻す」使命を見つけたアシタカは、人間離れした力で追手を倒し、山犬と並走してシシ神の森へ進んでいきます。
(すっかり足が鈍ってしまったとか言ってた日の夕方には山犬と全力疾走)
んで乙事主からサンを救いシシ神の首を取り返す大活躍。
やるべき事が見つかると目の色が違いますよね。

そしてラストでは「私はタタラ場で暮らそう。」と言い、エボシも「アシタカを迎えに行っておくれ。」とタタラ場へ迎え入れる発言をします。

故郷を追われたアシタカがようやく居場所を見つけました。
状況が全然違いますが、ようやく内定が出たような安堵感を感じます。


アシタカ、サンにフラれていたんじゃ?

ちなみにサンも「人間にも山犬にも成りきれない」と言われているように、自分の居場所やアイデンティティがはっきりしない孤独を抱えています。

先述の記事によればアシタカと関係を持つくらいになっていたのなら、同じような孤独を抱えたもの同士共に生きてもおかしくはないです。
モロも「お前にはあの若者と生きる道もあるのだが」と言っています。
多分モロはアシタカの事を認めています。でもサン自身が「人間は嫌い。」「私は山犬だ!」という気持ちだったので「黙れ小僧!」とか言って追い返しちゃったのでしょうか。

アシタカ、フラれてない...?
自分をフった女に小刀あげてる...?

サンはあれどういう気持ちで受け取ったのでしょうか...なんかやたら目をキラキラさせてるけど。

エボシとアシタカ

疑り深く見ちゃうとこの二人も...?って思ってしまう。自分の心が汚れてるのかな。

殺したい程憎かったはずなのに腕をなくしたエボシを助けるし、殺したい程エボシを憎んでいるサンに許してやれ、みたいな事を言う。
んでエボシを助ける時に服脱いで中途半端な上裸になるし。脱がなくても不自然じゃないのに。
これはそういう事があったという暗示か?と勘繰ってしまいます。

その後のサンの怒りと宥めるアシタカって、浮気がバレた男が悪気はないんだよ君が本命だよみたいな言い訳をしてるやり取りにも見える。
サンが怒りのあまり刃を突き立てるのがエボシじゃなくてアシタカだし。

ラストで「アシタカを迎えに行っておくれ」と言うカットではアシタカの着物が映り込んでる上に表情もアップで何か乙女ちっく。(に見える)

それにタタラ場の女達の態度。
エボシを崇拝しきっているような態度に対し、男に対してはかなり無礼。
公方様の使者に対しては超無礼。
でもアシタカに対してはかなり親切。
「男は信用できない」という態度のトキが「アシタカ"様"はきっとエボシ様を連れて帰ってきてくれる」と信じている。
様呼びですよ様呼び。トキが様を付けて呼ぶのはエボシとアシタカだけです。
これはエボシがアシタカを特別な男として扱ったからではないでしょうか?

単にイケメンだからかもしれないけど。

じゃあいつ?って言うとアシタカの事を「旅のお方」とか「そなた」って呼んでた時と「アシタカ」って呼び始めた時の間?

考え過ぎ?

ジコ坊の役割の謎

一筋縄ではいかなさそうな老獪な人物、ジコ坊。

物語序盤でアシタカに"シシ神の森の"存在を教えますが、ジコ坊は勿論タタラ場の存在を知っていたわけで、アシタカが見せた礫がタタラ場の人間が撃ったものということも見当がついたはずです。
エボシに「少年が来なかったか?」と尋ねていることからも、タタラ場に辿り着く事は予想していたはず。
では何故タタラ場のことを言わなかったのか?

ジコ坊の目的はシシ神の首を獲ること。
そのためにエボシがシシ神退治に行くよう仕向けること。

アシタカの持っている礫がタタラ場の石火矢から撃たれたもの、アシタカの呪いはタタラ場のせい。と先に説明してしまうとエボシがアシタカに殺されかねないから?
だったらそもそもシシ神の森のことだって言わなきゃいいのに...
という気がしなくもない...

というかそもそもジコ坊の物語の中での役割が謎。

アシタカにシシ神の森について教えるのは別にその辺の村人Aとか、市場のお姉さんでも良さそうなものだし、
シシ神の首を獲りたがるのもエボシ一人の役割でも良さそうな。

それに映画の最後の台詞はジコ坊の「馬鹿には勝てん。」で、それも何か意味があるのでしょう。
アシタカの「会いに行くよ。ヤックルに乗って。」で映画を締めない意味があるのでしょう。

凡俗な私には分からない...。

そして何度もリピートしてしまう罠。