番狂わせが面白い☆

予想外の事が起こる日々を楽しんでおります。ゆとり世代共働き1児(0歳)の母です。主に育児の記録、たまに趣味の宝塚感想など。

アナスタシア感想

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いやー楽しかった。
とにかく歌が多い!
まるでディズニーのような世界観、明解だけど深掘りできるストーリー(個人的に大きななポイント)、
華やかな衣装や舞台装置で観た後の満足感がすごいです。

では全体的な感想を。

お話の骨格は「自分探し」

舞台作品や映画は、歴史的出来事や空想の世界を背景にしつつも現代の課題について語り、観客に問いかけるものが多いです。

例えばディズニー映画の「ズートピア」は様々な人種が暮らすアメリカ社会を様々な動物が暮らす架空の街になぞらえて、数々の社会問題を提示しています。

宝塚でも、ベルサイユのばらのオスカルやアントワネットは「家に縛られない価値観の女性」という側面があります。

アナスタシア約100年前を舞台にしていますが、テーマはやはり現代だよなと思いました。
何かというと、「自分探し」。

女の子はお嫁さんになるのが幸せ、男の子は立身出世して家族を養う大黒柱となるべし、という時代からあらゆる選択肢が増えましたが、その分何を目指したら良いのか迷うことは増えました。
また社会的成功というのも曖昧になってきました。大手企業に入れれば成功なのか?起業家の方がカッコいい?でもそれで家庭生活を犠牲にするのって幸せなの?とか。

自分はどう生きていけばいいんだろう?
自分は何者になれるんだろう?
現代にいきる人は、極端なことを言えばそういう漠然とした不安を抱えているわけです。

だからアーニャは自分が何者か示してくれる人を求めて、パリを目指します。

マリア皇太后に「あなたはアナスタシアだ」と認めて貰えればそこがゴールだと思っていた。自分が何者でどう生きれば良いのか答えを貰い、不安を払拭できると思っていた。ディミトリもそうできると言い続けてきた。

しかしマリア皇太后には「自分が何者か信じない事には始まらない」と、自分で答えを出すよう突き放されてしまう。

シンデレラのように誰かに魔法をかけてもらい、王子様に手を引かれてプリンセスになるのではなく、自分自身の意思でプリンセスだと胸を張らなければならない。
というのがアーニャの自分探しの旅の果てに乗り越えなければならなかった壁で、彼女は腹を括り(売り言葉に買い言葉的な感じもあったけど)、例え皇太后が認めなくてもアナスタシアとして「皇后は私にとってはママ」「ナナはオルゴールをくれた」と主張する。
アーニャ自身が自分はアナスタシアだと信じた上での言葉だからこそ、マリア皇太后も信じた。

この場面が原作アニメに比べて長いのは、ここが自分探しの物語の肝だから。

彼女が本物か偽物かなんていっそどっちでもよくて、自分自身が何者でどう生きるのか、自分の意思で決めるべきで、他人に決めてもらうべきではない、というのが一番のテーマかなと感じました。
うーん、アメリカ的。

こう書くと以外とよくあるテーマなんですが、
旧来の作品は、「生まれ育ちによって他人に生き方を決められるのはナンセンスだ!」という主人公(エリザベートとかオスカルとか)が多かったのに対し、
どうして良いか分からないから他人に決めて欲しい人物がヒロインになったのは時代の変化だなと思いました。


ディミトリが主人公になるよう潤色したとは言っても、物語の骨格はやはりアーニャの自分探しの旅ですね。
そこはエリザベートと同じに感じます。
(真風さんが主役として不足とかそういうことが言いたいわけではなく)

影、あるいは障壁としてのグレブ

そんなこんなで探していた自分を見つけだしたアーニャの前にグレブという壁が立ちはだかります。

この場面での彼は「生き方を選んだ時の負の側面」、いわば影だと思います。

ロマノフの皇女ならば、殺意を抱く人間が必ず現れる。
タカラジェンヌならば、普通の女の子としてのプライベートはある程度犠牲になる。
夢を追いかければ、結婚すればetc
人生に何度か来る分岐点で選ぶ道には何かしらのデメリットも付き物です。

アーニャは皇女になると同時に生まれる影に真っ向から対峙し、自分は皇女アナスタシアだと名乗った。

そしてホテルの一室で跪いたディミトリの肩に手を置いたのと同じように、
崩れ落ちるグレブの肩に手を置いた。
この動作の再現って結構象徴的だと思うんですよね。

ディミトリから向けられる敬意と、
グレブから向けられる敵意、
そのどちらにも皇女として応対している。
万民の上に立つ王族とは、そういうものであるべきなんですかね。
王族が君臨したことのないアメリカ人の感性がちょっと分からないので、何か分かるような分からないような感じなんですが...

ともかく彼女は、皇女になったことでの負の側面も受け入れて、もう一段の階段を登って成長したわけですね。

また芹香さんのグレブを観ててもう一つ思った事が。

皇女かもしれない自分を確かめに行こうとするアーニャに対してグレブは「誠実なロシア人でなければならない」とパリ行きを阻止しようとしています。
これが何だか学校の先生が「私女優になる!」とか言っている生徒を「いやいや現実見て真面目に進路を考えなさい」と何とか教え諭そうとしているように見えたんですよね。

アーニャに向かってThe Neva Flowsを歌う時も、社会主義を貫こうとする強い意思とか、アーニャの夢に対する強い否定よりも、「まあまあ悪いことは言わないから夢を見るのは大概にしなさい。君のためなんだよ。」とやんわり言い聞かせている感じがしました。

これってアーニャが自分探し中の夢見る少女だとすると、教師や親の立ち位置ですよね。夢を見る少年少女、特に人と違う道を選ぼうとしている子に対して「真面目にやれ」と言う親や教師は障壁になります。
安全な道を選ばせたいのは親心ですけどね...。
アーニャはあんまり意に介してないですが、グレブという役にはそんな親という障壁の役割もあるのかなぁなんて思いました。

そう、芹香さんのグレブからはけっこう親心的な優しさを感じます。
ブロードウェイ版はけっこう悪役っぽく、ロマノフ家に対する憎しみをアーニャにぶつけている感じがしましたが、芹香さんはアーニャへの思いやりが感じられました。
グレブの敵意が強ければ強いほど、それを乗り越えるアーニャの成長が見えやすいわけですが、
そうなるとアーニャの主役感がより強くなってしまう、というバランスもあるのかもしれないですね。

ディミトリとグレブの対比

先ほど、うずくまるグレブの肩に手を置くアーニャと、ディミトリの肩に手を置くアーニャが同じ動作をしていると書きました。

この場面の衣装の対比がブロードウェイ版ではより明確なんです。
真っ白な衣装のディミトリに対し、グレブの衣装はかなりダークなスーツ。

立ち位置も逆。
ディミトリの方はアーニャが上手側、ディミトリが下手側なのに対し
グレブの方はアーニャが下手側、グレブは上手側に位置しています。

これはたぶん何か意図がある!

演劇演出の基本的な意図として、
上手側にいるのが強い人物を配置するのが基本なんだそうです。(あくまで基本)

基本に基づくと、
ホテルでディミトリが跪く場面は
皇女アナスタシアと平民ディミトリの身分差を表現しており、アーニャは皇女としての未来に向かっている。

グレブとの場面は、
銃口を向けるグレブの威圧感の強調、アーニャの意識も過去のロマノフ家暗殺に向かっている。

こっからは拡大解釈ですが、
ディミトリはアーニャを素晴らしい女性として尊重し、彼女に未来を見せる力がある。
一方のグレブは善良なロシア市民
という型にアーニャを嵌め込もうとし、彼女に過去の贖罪をさせようとしかしていない。
そういう対比があったりするのかな...など考えました。

うーんでもブロードウェイでは逆かもしれない...。
別作品ですが、ライオンキングのプライドロックは下手側に配置されているし、
アナスタシアでマリア皇太后とアーニャの対談も、マリア皇太后が下手側。

逆(下手側の人物の方が強い、立場が上)だとすると、
ディミトリとアーニャの関係性はディミトリの方が主導権を握っているとか、
アーニャはアナスタシアだとより強く信じているのはディミトリの方とかいう解釈?

グレブは銃口を向けているけど、アーニャの「殺されてもかまわない」という意志の方が強かったとか?
この場面では迷いなくアナスタシアだと確信している=真に王族になった=グレブより身分が上になった、という皇女としての成長の表現?

ちょっと分からなくなってしまいましたが...
でも同じような動作を違う表現で演出しているということは、何らかの対比があるだろうなと思いました。

設定に関するツッコミ

2つありまして笑

1つ目は年齢。
革命が起きた時アナスタシアは17歳。そこから10年経過した本編スタート時点のアナスタシアは27歳なんですよ!
皆少女とかお嬢さんとか言うし、まどかちゃんが可愛いから10代後半くらいに見えるけど実は27歳なんだ!?と気づいた時の軽い衝撃。
史実だからしょうがないんですけど!
んーでも革命から3年後とかじゃダメだったのかしら。。

2つ目はダイヤモンド。
1幕で「出国許可証を買うお金が足りない」と言われてダイヤモンドを差し出すアーニャ。
いやそんなもん持ってるなら最初から1人でダイヤモンド売ってパリに行けば良かったやん!て心の中で突っ込んでしまいました。
ディミトリを信用しましたよーってエピソードなんでしょうが...。

潤色に関する若干の不満

ディミトリを主役に据えるのであれば、グレブと絡む場面を取り入れて三角関係のストーリー性をもっと見せれば良かったのになーとちょっと思ったり。
アーニャが皇女になるのに大きな壁としてマリア皇太后とグレブがいて、
マリア皇太后の方はディミトリの説得でアーニャの話を聞くことになってディミトリがちゃんと関わっているけど、
グレブに関してはディミトリはノータッチ。
物語の重要場面で主役が関わらないって勿体ない...。
というか物語の中でディミトリとグレブって顔を合わせる事すらない。

グレブとアーニャの対峙の場面にディミトリがいると、途端にヒーローに守ってもらうお姫様という構図になってしまうのでアーニャのキャラクターがかなり変わってしまうけど...
グレブがアーニャを追いかけて橋まで追い詰める→通りかかったディミトリがアーニャを守る→グレブ結局撃てないで退散
→アーニャプリンセスの立場を捨てると宣言→2人は結ばれてめでたしめでたし

まぁここまでやってしまうと原作無視も甚だしいけど
...宝塚的にはアリじゃない?!

潤色で好きなところ

アーニャが皇太后と面談中、ディミトリはそわそわ待っていて「上手くいったらただ一つ失うもの...」的な事を歌って、何を失うかははっきり言わないんですよね。わかりきってるけど。
ブロードウェイ版のCDでは"The only thing I lose is you"って「ただ一つ失うもの。それは君だ。」とはっきり名言しちゃっています。
これはっきり言わない方が100倍良いですよねー

この後でアーニャも同じ曲をリプライズするのも両片思い感があってグッときます。
2人とも可愛いなーもう。

というわけで長々と語りましたが、物語全体の感想でした。
あと1回観る予定なので、観たらべた褒めキャスト感想でも書こうかなと思います。


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